私は21歳で、彼は35歳。だけど、彼はとても紳士的で、落ち着いていて、優しいの。頼りになる人。それに、彼は世界を約束してくれたわ。この大きな世界中を私に見せてくれるって!だから、私は

結婚します

一年後の1936年9月。息子のヒロキが生まれました。千畝さんは、日本とソ連間の漁業権の問題を解決するためにカムチャッカに行かなくちゃいけなかったけれど、帰ってくるなり腕の中に赤ちゃんをぎゅっと抱きしめたのです。私たちはとても幸せだったわ。半年後には約束通り、広い世界が待ち受けている。千畝さんはモスクワで通訳の仕事をみつけてきたのよ。妹のセツコも一緒に行くことになりました。私たちは新たな旅立ちに向け、荷物をスーツケースにつめこみました。 あとは、玄関のドアに鍵をかけるだけだったわ。けれど、ソ連は千畝さんにビザを許可しなかったの。千畝さんはソ連のことを知りすぎているから、ソ連はもう彼に来て欲しくないのよ。

さらに一年後、私たちはまたスーツケースに荷物をつめました。今度は北欧の国、フィンランドの首都ヘルシンキに行くことになったの。大使館で書記官として働くのよ。ソ連がビザを断ったから、私たちはまずアメリカの都市、シアトルに行って、それから別の都市であるニューヨークへ行き(乗り換えはあっという間で、観光なんてする時間はなかったわ)、すぐに大きなドイツのクルーズ船、ブレーメン号に乗ったの。そんな船があるなんて、想像したこともなかったわ。プールもあれば、映画館もある。それから、朝ごはんも昼ごはんも夜ごはんもあって、その度に服を着替えろって言われるのよ。オーケストラの 生演奏が始まる前に、私たちは美しいドレスを着て席についていなくちゃならなかったの。もし誰かが後になって「クルーズ船ってどんなだった?」って聞いてきたら、私はこう答えるでしょうね。「いつも着替えばかりしていたわ」って。

クルーズ船で、ダイアモンドのネックレスとシルクのガウンを身につけている裕福なアメ リカ人たちと4日間過ごしたあと、私たちはやっと陸に到着して、ヘルシンキにむけて汽 車に飛び乗ったの。

フィンランドでなにをしたかって? 私はフランス語とドイツ語の授業を受けたわ。それから礼儀作法と社交ダンスも学んだのよ。こういったことができなかったら、外交官の妻として務まらなかったでしょうね。だって、家にお客様をお招きしていない日は、毎日どこかにお招きされていたのだもの。 ランチに、お夕食に、午後のティーパーティー。お夕食の前に、外交官は政治について討論して、お夕食の後には、ダンスがそれにとって替わったわ。日本から持っていった着物で、私はいとも簡単に人目を引くことができたのよ。ほかの貴婦人たちは、信じられないと言うようにうっとりして絹の着物に触りたがったのだもの。だけど、着物だとダンスフロアで動きにくいでしょう?だから、私は西洋のドレスを買わなくてはいけなかったわ。外交官の妻は、こういうことのために特別なお金が与えられていたの。だけど、お買い物に行くと、ちょっと戸惑ってしまうような質問をされたものよ。「あら、あなた中国人?まぁ、日本人なの?じゃあ、どうしてあなたの肌は全然黄色くないのかしら?」って。 私、もう一度短歌を書き始めたわ。

長きヴェール
垂らして夫に
従へり
スェーデン公使の
レセプションの 宵

さらにその一年後、二人目の息子であるチアキが生まれました。 翌年、千畝さんはリトアニアへ行くよう命令を受け、カウナスの日本領事館で領事代理として仕事を始めました。そうして、私たちが去ってすぐあと、12月にはソ連の爆弾がヘルシンキに落とされたのです。

あぁ、ネコちゃん、眠っているの? 私の半生をあなたに話しているのに、あたなは眠っ ているのね。その後のことはご存知でしょう? 私たちは、カウナスが見渡せる、この丘 の上の家に引っ越してきたのよ。週末には、リトアニアのいろんな場所に旅したわ。特に 海辺をね。庭に2本のリンゴの木を植えたし、3人目の息子、ハルキが生まれた。(8)あら、 みて、もう起きてベビーカーで泣いているじゃない。

雨は止んだ。セツコは赤ん坊を庭に連れて行くだろうな。だけど家の外は、いつもは人通 りもなく静かなこの通りには、朝から人々が集まっているんだ。

眠ってなんていないし、ちゃんと聞いていたよと言いたくて、ぼくは自分の耳を引っ掻いた。伸びをして窓辺から机に飛び移り、それからユキコの膝の上に滑り込んだ。ユキコは疲れていて、心配そうで、そうして・・・怯えていた。

彼女はまた別の短歌を作った。

ビザを待つ人群に
父親の手を握る
幼子はいたく
顔汚れをり手を

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