田舎へ

1941年夏

村のネコは必ずミルクがもらえるのよ。畑や食料庫にはネズミがたくさんいるから、ちょっと遊びに行けば捕まえられるわ。きっと田舎は楽しいわよ。なんて言われていたのにさ。ここはそんな本物の田舎じゃない。ただの農場だ。メイドのお兄ちゃんの奥さんは、ぼくらをみた途端にぶつぶつ言い出した。「ここにあんたたちの居場所はないからね。なんだって街を離れたんだい。金の川が干からびたのかい?それに、こんな生きもの連れてきて。ネコなんてもうたくさんいるじゃないか?」 たしかに、ネコはたくさんいるよね。ぼくはやつらと喧嘩して、耳の半分をなくす羽目になったもん。だけど最後には、ぼくもここに腰を落ち着けて、毎朝毎晩ミルクをもらえることになったんだ。メイドが牛の乳搾りから帰ってきた時にさ。

正直なところ、最初は庭に出るのが怖かったんだ。唸って吠える犬がいるんだよ。だけど、この老いぼれた生き物は鎖に繋がれているから、ぼくがばかなことをしたり、鎖が届くところまで行きさえしなければ、やつは手出しはできないってわかったんだ。ただ声が出なくなるまで吠えるだけ。ヒステリックな年寄り犬やーい!この犬をからかうのはとても楽しいんだよね。

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冬になると、ぼくは他のネコと一緒に部屋に入るのを許された。お兄ちゃんの奥さんは、「犬は食べ物のために言うことを聞くし、ネコはあたたまるためなら言うことを聞くのよ」って言うんだよ。でもぼくはその言い方が好きじゃない。だってぼくは召使いじゃない! ちがうもん、ぼくはネコ様だもん! ぼくは元メイドの後をついてまわって、農場のちかくの街がどんなだか知ろうとした。騒々しい紡績工場、焼きたてのパンの匂いのするパン屋、4軒の肉屋、でもメイドは肉もパンも買わなかった。 買うのはユダヤ人よ。おばかさん。私は家でパンを焼くし、お昼ごはん用のニワトリは兄が自分の手で絞めているもの。

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でもキリスト教の受難節の間は、ほとんど毎日のようにニシンを買いに行くわ。ニシンを売るのはユダヤ人だけ。リトアニア人はニシンの獲り方を知らないのだから。 ぼくたちは街を通った。皮なめし職人の店、ショーウィンドーにキラキラした鎖がみえる金物屋、帽子屋、新鮮な香りのするキュウリピクルス屋を通り過ぎ、陽気に口笛を吹く靴屋に挨拶をする。このあたりの匂いと音は、ぼくにカウナスを思い出させた。

だけどぼくたちは、今の家、あの農場にいつも急いで帰らなくちゃいけなかった。不機嫌な兄嫁が愚痴を言う家に。街からきたやつらに、我が家は食い尽くされちまうよって言うんだからさ。

だけど一年近く過ぎたころには、この兄嫁の不満もすこし和らいでいった。だって、メイドとぼくは、彼女を喜ばせるためにできることを全部したんだからね。メイドは牛の乳搾りをしたし、鶏に餌をやったし、卵を集めたし、牛乳を分離させて、町の市場に持っていくバターを作った。ぼくはネズミを捕まえては家にもってきては、兄嫁の足元にごろりと置いて見せびらかしたんだ。

ぼくたちがカウナスを出たのは早秋だった。冬がきて、春の仕事を終えると、夏が来る。 ある噂が広がった。この町ヴァスクィでは、白い腕章のソ連が権力を握ったんだって。ユダヤ人は左ひじの上に黄色の腕章をつけなければ逮捕されてしまうことになった。白の腕章、黄色の腕章......なんのゲームだよ。人間って本当に変。

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翌日の夕方、メイドのお兄ちゃんがラジオを持ってきた。ニワトリと引き換えに靴職人がくれたんだそうだ。「ユダヤ人は、もうこういう物を持ってちゃいけないんだとさ」 いつものようにメイドとぼくが商店街にいくと、そこにはもう車がなかった。すべてのショーウィンドーはカーテンでおおわれ、シャッターが閉められている。市場だけはいつもと同じように人々でごったがえしていた。みんなおしゃべりして、情報を交換している。 「夕方から朝まで、明かりをつけちゃいけないんですって。さもないとやつらが撃ってくるのよ」「お店がどこも閉まったって気づいたかしら?ユダヤ人は世界の終わりまで商売を禁じられているのよ!」 メイドが、売り物のバターをカウンターに置いたとたん、赤らんでだらしない顔をした客がバターをつかみ、代金を投げて走り去った。「この馬鹿、ユダヤ人にバターを売るなんて。今に撃たれるぞ!」メイドの周りのバターやチーズを売っている人たちがそうささやいた。その日、家に帰ると兄嫁がこう教えてくれた。「もし、ユダヤ人を助けつつ、お金も稼ぎたいっていうのなら、彼らの家に直接売りに行きなさい。でも注意深くやりなさいね」

どのくらい時間が経ったんだろう? ぼくは覚えてないや、ぼくたちは暗闇の中でろうそくのそばに座っている。窓には光が外に漏れないようにとカバーがかけられている。ぼくたちはだまっていた。ゆりかごの中の赤ん坊だけが、子ネコのように静かに泣いている。兄嫁はどこから赤ちゃんをつれてきたのだろう? 「神様がお送りくださったのよ」と彼女は言った。「私は何年も神様に祈っていたわ。子供が授かりますようにって。ついに神様が私の祈りを聞いてくださったのよ」と言った。彼女はそう言うのをやめなかったし、ぼくたちはそのうち、本当に兄嫁がその子を産んだと信じるようになったんだ。ユダヤ人のためにチーズや卵をこっそり持って行って、代わりに小さな子供をかごに入れて持ち帰った。それはメイドじゃなかった、そうだよ、それをしたのはメイドじゃなかった。あの兄嫁だった。

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ヴァスクィの若いユダヤ人はみんな捕まってしまい、牢屋に入れられた。だけど捕まえておく場所もないから、すぐさま男たちはディチュンニー村の納屋に追いやられたんだ。母親や姉妹は、ディチュンニー村に食べ物を届けに行ったし、彼らはきっとすぐに元に戻されるだろうと思えた。だけどある夜、全員がグルージェイの森に連れ出され、銃殺されたんだ。

女の人たちが泣きながら町に帰ってきた。その声を聞いて、ぼくたちも集まった。彼女たちは地面に崩れ落ちたり、震えて立ち上がったり、またその場所に引き返したりしている。ぼくたちの胸も張り裂けそうだ。彼女たちのうめき声で町が崩壊してゆく。でも、これはほんの始まりにすぎなかったんだ。

若い男の人たちが殺された後、残った人たちも集められた。老人や子供たちも集められた。女の人たちは「お前たちは別のところで暮らすんだ。だから、大事なものはすべて持ってこい」と言われた。

パスヴェリースにユダヤ人ゲットーが設置された。白い腕章の軍団が、川沿いの数本の通りをフェンスで囲み、ユダヤ人を強制的に中に入れた。ヴァシュカイの町に残された人々、大きな干し草の馬車でサローチの町から連れてこられた数十家族、狭い列車でユニシキエールスから連れてこられた300人くらいの人々。彼らの荷物は、駅のそばの納屋に山積みにされていた。

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かわいい深皿、金メッキの磁器カップ、おじいちゃんの時計。これらを買いたい人はいる?急いでおいで。持ち主はもう必要としていないし、ゲットーに磁器のカップは必要ないだろ? ゲットー自体が場所を取りすぎるから、1ヶ月もしないうちにシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に皆が集められた。そして全員パピヴェシィ村に移動するよう言われたんだ。そこには労働キャンプが作られていた。みんなたった一口のパンと芋の皮のために働かされるんだ。ただでは食べさせてもらえない。 たくさんの人たちが荷物を持って町から去っていく。

でも... パピヴェシィ村は反対側だよね?どうしてジェディーキの方に向かっているんだろう?どうして森の中に入っていくの?どうして2つの巨大な穴が掘られているの?どうして男と女を分けるの?どうして服を脱げという命令に遅れると、服を引き裂かれるの?どうして穴の上の橋に、裸の人々を立たせるの?どうして撃ったの?どうしてロシアの囚人がその上に石灰をまいているの?どうしてまた、橋の上に人々を立たせるの?そしてまた銃声、また銃声、また、また・・・。

兄嫁の叔父さんは、ジェディーキの森に住んでいた。2日間、外出は禁止されていた。森は銃声とうめき声に包まれ、昼間はとてもじゃないけど食事をすることはできなかったし、夜も眠れなかった。夜中過ぎにライフル銃を持った酔っ払いが家に押し掛け、ウォッカをもっとくれと言って笑った。

「あのクソユダヤ人はタフだったな!」 おれはもう、あのネズミ野郎たちに弾丸を使いたくなんてないね。ケツで1、2回殴ればいいんだよ。だけどまだ奴らは生きている!もう土に埋めたんだぜ。なのに、まだ動いているんだ、悪魔みたいに地面の下でくねくねしてやがる。

それからわずか数日後、叔父さんは思い切って家を出て森に入った。そうして見た。ハエの大群、地面の下から泡立つ血、暗黒の世界を。

「どうして私に言うのよ!」とメイドは泣いた。「どうしてこんな話をしたのよ!」と兄嫁も泣いた。メイドのお兄ちゃんは、ちょうど叔父さんを連れてきたところだったけれど、シャベルを持って、それからちょっと考えて、灯油ランプを持って、外へ出て行った。

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