華麗なるスパイたち
最後にはどうなるの?
だけど、スパイはどうなったんだろう? この物語の最初に話していただろ? スパイはどこにいったのかな?
杉原千畝は晩年、リトアニアのカウナスにいたときの、自分の仕事のことを隠さなかった。仕事。それは、新しい同盟国であるドイツとソ連の軍隊の動きについてできるだけ正確な情報を集め、新しい紛争があればできるだけ早く日本に知らせることだったことだ。女の人たちや子供たちがピクニックを楽しんでいる間、千畝が車でリトアニア周辺を頻繁に観光していたことを、妻のユキコは覚えている。若い男性が農場にいない? それは戦闘に動員されているからかもしれない。道路に妙に広い妙に広い車の跡はないかな? それは軍の装備が整ってきているのだろう。
顧問のボラスロヴァスは、ポーランド軍から杉原に推薦された領事館の職員だった。当時、占領下のポーランド政府は、すでにイギリスに移っていた。だから、ボレスロヴァスをはじめとする数人のポーランド人は、ポーランドのスパイとして活動しながら、同時に、千畝の「目と耳」でもあったんだ。だって、リトアニアで唯一の日本人が歩き回って自然に地元の人に質問して、それがバレないようにするなんて簡単なことじゃないからね。



グッジェは、ビザ書きを手伝ったことからは想像もつかないのだけれど、ナチスドイツの秘密警察、ゲシュタポのスパイだと考えられている。彼は開戦と同時に姿を消した。
っていうことはだよ。この物語に登場するほとんどの人が、二重スパイ、秘密工作員、スパイだったってことだ。たぶん・・・たぶんメイド以外はね。だけど、ぼくたちはそれが本当かどうかだったかなんて知ることもないさ。


その後どうなったかって? 杉原一家がカウナスを離れた後、千畝は短い間だったけれど、チェコスロバキアの日本総領事館で働いた。その1年弱後には東プロイセンのケーニヒスベルグの総領事館に赴任したんだ。そのさらに1年後、1942年にはルーマニア公使館で一等通訳官として働き、終戦までそこで過ごした。だけど1945年の秋には家族とともに収容所に入れられてしまい、1年間をそこで過ごすことになった。そして、1947年の春にようやく日本に帰ってきた。だけど、外務省は千畝を解雇して、外交官名簿から抹消したと発表した。それって、何千というビザを不正に発給したからなのかな?
その頃、日本は大変な時代だった。千畝が失業したことだけじゃない。日本中が食糧難だったんだ。食糧配給券で買える食料はわずかで、杉原一家は米と芋だけで生活することになった。そして、最悪の事態が起こってしまう。千畝の7歳の息子、ハルキが突然体調を崩し、一晩で亡くなってしまったんだ。白血病だった。
その1年後、長い間杉原一家のベビーシッターをしてくれていたユキコの妹、セツコが結婚し、けれど娘を産んで亡くなってしまった。
ようやく幸せが戻ったのは、1951年1月8日のこと。千畝夫妻に四男のノブキが生まれた時だ。

1968年まで、誰もカウナスでのビザのことを思い出さないようにしていた。けれど、イスラエル大使館のニシュリさんから電話がかかってきたんだ。彼は、かつてビザの交渉をした5人のユダヤ人のうちの1人だ。ニシュリさんが千畝を見つけるまで、なんと28年が過ぎていた。それはカウナスに住んでいた時、日本人じゃない人にはこっちの方が発音しやすいだろうと、千畝は自分の名前をチウネではなく、千畝(センポ)と伝えていたからなんだ。
同じ年の8月、日本の新聞に 「4000人のユダヤ人を救った人」という記事が掲載された。1969年には、千畝は、かつてビザの交渉を担当し、現在は宗教大臣を務めるゾラハ・ワルハフティグに招待されてイスラエルを訪れた。あの時生き残った何百人もの人たちが、かつて千畝から受け取ったビザを一番大切なもの、思い出の品として保管しているそうなんだって。
千畝はモスクワを中心に仕事をしていたけれど、1976年に退職した。心臓が弱っていたんだ。だから、1984年にベトシェメシュの丘に千畝を称えて木が植えられたとき、式典にはヘブライ大学に留学していた息子のノブキだけが出席したんだ。元々は桜を植えるつもりだったけれど、日本の杉の方が気候に合っているとのことで杉が植えられた。それに「杉」は、杉原千畝の頭文字だしね。







1985年、イスラエルがホロコーストの犠牲者を救済した他の国の国民に与える称号である「ヤド・バシェム賞」の「諸国民の中の正義の人」の称号が、千畝に授与されたんだ。この名誉ある称号を受けた日本人は、これまで千畝一人だけなんだよ。
1986年7月31日、杉原千畝は86歳でこの世を去った。



だけどね、オランダ領事だったヤン・ズヴァルテンディクには、こんな風な幸せな展開は訪れなかったんだ。彼はリトアニアでの出来事を誰にも話さなかった。カウナスを離れ、自分が発給したビザのリストをすべて焼却してしまったんだ。1964年、彼はビザの偽造でオランダ当局から厳しく怒られることになった。誉められたんじゃない。怒られたんだよ。ヤン・ツヴァルテンダイクは、自分がどれだけのユダヤ人の命を救ったか、知ることもなかった。1976年9月15日、イスラエルからオランダの都市アイントホーフェンに届いた手紙には、彼が救ったユダヤ人の95パーセント、2132人が生き残ったと書かれていた。でも悲しいことに、ヤン・ツヴァルテンダイクが亡くなったのは、その年の9月14日だったんだ。嬉しい手紙がくるのは、1日遅かったんだ。
2000年、小惑星に千畝の名前が付けられた。「小惑星25893スギハラ」という名前だ。