とっても騒がしい朝

あっちに行っていなさい、アキオ、このバカネコ。乳母車にお前の毛がいっぱいついているじゃないの。ふん、田舎のかぼちゃみたいなメイドが、またぼくに怒ってくるよ。もし、聖ジータ教会のメンバーたちが助けてくれなかったら、このメイドなんてどうしたらいいか、どこで働いていいかもわからなくて、まだ駅で突っ立っていたに違いないのにさ。恐怖に怯えながら、毛糸の靴下の入ったバッグを神経質そうにしっかりと握り締めてたにきまってる。それが今はあたたかい家に住んで、バルコニー付きの自分の部屋をもっている。仕事だってある。(もし羽のついたホウキで、緑のテーブルランプとかピアノの上のホコリを払うことが掃除って言うならだけどさ。)ぼくはね、ホウキって、まるでジャンプしているスズメみたいだなぁって思うんだよね。

それにしても、カウナスのスズメの鳴き声は、一番美しい音楽だ! だけどご主人様はそうは思っていないみたい。彼はピアノのところに座ってずっと同じ曲「乙女の祈り」を弾いている。毎日だよ。ぼくは時々考えちゃう。千畝がほかの曲を弾いてくれますように祈るべきなんじゃないかって。ぼくはやっとのことで、千畝の足の指を噛みたいのをおさえて、ストライプズボンのふくらはぎにからだを擦り付けるだけにした。アキオ、そういう時千畝が言うんだ。アキオ、おばかさんだね、だめだよって。

window house

でも今日の朝はなにかが違っている。もしスズメとピアノの音がなければ、いつもはヴァイガンタス通りはとても静かなんだよ。だけど、今朝は外から変なうなり声が聞こえてくる。ぼくは窓辺に飛び乗って、耳でそっとかぎ針編みのカーテンを持ち上げた。門のところには、人々が群がっているじゃないか。ごう音のような人だかり!ぼくは、家族みんながぼくの隣に立っているのにも気づかなかった。 警戒している千畝、戸惑っているユキコとセツコ。こどもたちに朝食をだしたばかりだっていうのに。領事館は朝9時に開くけど、カーテンが動くのが見えたからか、外の人たちは大きな声で叫び出した。千畝は運転手のボリスラフに、この騒動の原因をさぐるように指示した。セツコがおそるおそるカーテンの隙間から群衆の姿を撮影していると、ボリスラフが通りから戻ってきた。「彼らは、ビザが欲しいと言っています。」

piano

それから起きたことは、全部が夢のようにぼんやりしている。人、人ばかりで、ネコは置いてきぼりさ。メイドはいつものように食べ物を買いに行こうとした。だけど門に触れるやいなや、ユダヤ人たちが庭に転がり込んできて、グッジェとボリスラフは彼らに通りに戻るように言わなくちゃいけなかった。やっとのことで、むこうの代表5人が領事館に入ることになった。リーダーのバルハフティックは、できるだけ冷静に問題を説明した。 ナチスドイツから逃れたポーランド系ユダヤ人は、今度はソ連から逃げなければならないのです。シベリアへの強制送還が迫っています。そのため、数日前にビザを取得した二人のオランダ人留学生のように、私たちには日本の通過ビザが必要なのです。もし、私たちユダヤ人避難民が日本の通過ビザを得ることができれば、ソ連は高額な金と引き換えではありますが、彼らの領土であるウラジオストクまで行かせてくれるでしょう。そうすれば、キュラソーのビザを、最終目的地として使うことができます。実際は日本には滞在いたしません。

door door door

2枚の通過ビザを発給するは普通のことだけど、門の外にいるのは200人。これだけの人数のビザを発給するには日本政府の許可が必要になるから、東京にその依頼書を送らなくちゃいけなかった。

杉原千畝は3回も、日本に電報を送った。 通過ビザを発給させてください。リトアニアの領土にソ連の軍隊が入ってきています。旧リトアニアに忠実な人々が、リトアニアの元公務員、学校の先生、弁護士、ポーランド兵、ユダヤ人労働組合であるバンディスト、イスラエルの地にユダヤ人の故郷を再建しようするシオニストたちがすべて逮捕されています。ユダヤ人の新聞編集者がロシアに連れて行かれて殺され、ユダヤ人難民たちが日本領事館前で夜をあかしているのです。この人々にビザを発給する許可をいただきたい。

door

だけど、3回とも返事はノーだった。 今後、日本以外の国に住む保証があることを証明する書面を持っていなければ、ビザを発給してはならない。また、お金がない者にはビザを発給してはならない。

でも、誰も証明書なんて持っていない。誰も十分なお金なんて持っていない。そもそも、ほとんどの人はお金をまったく持っていないんだ。ズヴァルテンディクのキュラソービザは11リタ必要だし、日本の通過ビザは通常2リタだ。この金額だって、ゲートで待っている人たちにとっては、大金なんじゃないかな。正式に日本に入国する証明書のためには、何千リタもかかる。そんなのものすっごくすっごく大金だよ。

door door

千畝はひどく不安になった。もう夜も眠れない。領事館の門の前にいる人たちは疲れていて、こごえている。7月末だけど、今年の夏はいつもと違って肌寒いんだ、特に夜は。 夜。あぁ、夜になると門のところの人たちはロシア兵にけちらされる。妻のユキコが、また詩を書いた。

ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる
夫のベッドの軋むを聞けり

杉原さんはビザを発行するのでしょうか?