華麗なるスパイたち
さよなら、カウナス
ぼくがまだ子猫だった頃はさ、多くの時間を子供部屋で過ごしていたんだ。糸にくくりつけた紙を捕まえようとすると、子供たちが笑う。それが好きだった。それにセツコが話す日本の昔話もね。だけど、ぼくがもうちょっと大きくなって、つまりさ、もうまるまった毛玉なんかじゃなく、立派な野獣ネコさまになったとき、ぼくはセツコを、というかセツコが話す昔話を信じられなくなったんだ。
ある日のことだ。セツコがメイドに怒って、あかなめの話をした。あかなめっていうのは夜になると現れる妖怪さ。ちゃんとお風呂を洗わないと、あかなめがやってきて、湯船についた垢を舐めるんだって。 ぼくはあかなめを見ようとして、毎晩お風呂場に隠れてみた。あかなめが長い舌で、汚れているお風呂場のふちをぐるぐるなめまわすのを見たかったからね。だけど、ネズミの影すらみえなかった。
ちぇ。そうそう2本の尻尾をもつバケネコの話も聞いたんだ。この3色のネコは毎晩おばあさんのために歌ったり踊ったりするんだよ。誰にもいっちゃいけないよって言いながら。で、おばあさんがおじいさんにそのことを話すと、そのバケネコは、おばあさんを食い殺しちゃうんだ。


ぼくたちネコが、おしゃべり好きなおばあさんを食い殺すことなんて絶対にないね。ぼくたちは食べるならスズメの方がずっと好きなんだから。 8月になると、つまんないことにスズメが街を離れてしまう。収穫は終わり、畑の穀物はきれいになくなってしまうからさ。ほら、おばかなスズメだけが落ちた小麦が残っていないか探しているだろ?ご主人様の千畝も、どこかに行ってしまうみたいだ。ぼくは日本の外務省から、何回か電報が来ていることを小耳に挟んでいた。ソビエト連邦がついに全権を握ったので、まもなく国境が閉鎖されて出国できなくなるだろう、直ちに領事館を閉鎖して出国せよってさ。

ぼくは日本の外務省から、何回か電報が来ていることを小耳に挟んでいた。ソビエト連邦がついに全権を握ったので、まもなく国境が閉鎖されて出国できなくなるだろう、直ちに領事館を閉鎖して出国せよってさ。家のそばにはまだビザを求める行列ができている。ぼくはもう見慣れてしまったけれど、千畝は昼も夜も事務所を離れず、ビザを書いて書いて書いている。そうして、その疲れた、やつれた顔がますます悲しそうになってゆく。セツコは子供たちの服を畳んでスーツケースに入れ、ユキコは家の中を歩き回りながら、早めに送る大きな荷物をどれにするか決めていた。ユキコがリビングのドアを開け閉めすることがどんどん増えてきていた。ドアを壁側に押すとドアは見えなくなって、引っぱるとまた見える。ぼくは尻尾を挟まれないように気をつけなくちゃ。
それからね、みんなはぼくをメイドに託して、メトロポリス・ホテルに行ってしまったんだ。ぼくは何回か千畝の匂いを追って街に出た。ホテルにまではたどり着いたけれど、でもホテルの中には入れなかった。外から見ると、ホテルはついこの間まで住んでいた領事館に似ていた。ビザを申請する人たちの行列がここにもできていたんだ。千畝は、旅立つ列車を待っている間でさえも、このホテルで領事として働いているってことなんだろうか?



ぼくは家に戻った。もはや領事館じゃなくなった我が家。ぼくはメイドを探した。カウナスを走り回って足がひりひりするよって言いたかったんだ。だけど、メイドは泣いていた。そうだ、もう仕事がないんだ。ぼくはご主人様に置いていかれた哀れなネコだし、彼女はご主人様に置いていかれた哀れなメイドだ。ソ連の新政府は、神などいない、だから聖ジータ教会もない、普通の労働組合があるだけだ、と言う。家の主人などという上流階級も存在しないし、だから、メイドという存在もありえないと言っている。
辺りが暗くなるとすぐ、グッジェが誰もいない領事館に忍び込んできた。注意深くあたりを見回す。メイドと冗談を言い、ぼくのあごをナデナデして、それから暗号解読室だった部屋で何かを探していた。すると、領事館のドアがすさまじい勢いでゆれた。誰かがドアをノックしている。犬が吠えている。ぼくはシャーッと威嚇してから、巻き上げたカーペットの後ろに隠れた。


「民兵だ!開けろ!」と誰かが叫んでいる。
「危険なドイツ・ゲシュタポの諜報員、ヴォルフガング・グッジェを探している、ドアを開けるんだ!」