ユキコのこと

外は雨。ぼくたちネコは雨が好きじゃない。スズメは隠れるし、どこもかしこも泥だらけだし。家に帰ったら、前足を長いことなめなくちゃいけないんだよ? ぼくはほかほかしているラジエーターをクンクン嗅いだ。「温かいー冷たい」と書いてある熱い調整弁の黒い円盤は、「温かい」の方を向いている。ぼくは窓辺に飛び乗った。隣にはユキコがいて、書類を書き写している。どれも

3枚ずつ書き写された。ユキコが、まだ日本に住んでいた頃のことを考えているのが聞こえてきた。

私が小さい頃、とユキコは言った。大きくなったら作家になりたいと夢見ていました。お父様が香川高等学校の校長だったのですが、それはとっても大きな図書館が家にあるのと同じこと。 これ は、家にたくさんの本があって、それをむさぼるように読んでいたということです。高等学校の試験がとても難しかったから、頭を休めるために詩を書き始めました。私の詩は「麗女会」や「少女倶楽部」にも掲載されました。とっても嬉しかったわ。 短歌 を書くことも学び始めました。有名な詩人になりたかったの。もしくは画家に!それか、パリに行って美しいサロンを開くのもいいわ。私にはたくさんの気ままな夢がありました。きっとお母様からの遺伝ね。 きゃしゃな腕時計が日本に登場した途端、お母様は自分のためにそれを買う、そんな素敵な女性でした。 最初にハイヒールが登場した時も、お母様はぺたんこ靴を脱ぎ捨てて、近所を出歩くにもそれを履いていたわ。

日本は少しずつ世界中の他の国々から孤立していっているようです。でも、今のところ私 たち家族には、差し迫った危険は感じられません。 予兆もなかったのに突然お父様がお亡くなりになり、私はお葬式の後、東京に引っ越しま した。お兄様が保険屋さんとして働いている東京に。そしてあるとき、お兄様はお友達を 家に連れてきました。その方は、こんにちはと言うや否や、ノートを取り出して漢字を書 き、それを私に見せてきたのです。

「これ、読めますか?」と彼は茶目っ気たっぷりに笑いながらたずねました。
「センポ! 画家のようなお名前だわ。あら、ちょっと待って。もしかして、チウネかしら?」
彼の顔がぱぁっと明るくなりました:
「ぼくの名前をチウネと読んでくれたのは、ユキコさん、きみが初めてだ。なんて素晴らしいんだ、きみは」

これが私たちの出会いでした。千畝さんはよく家に訪ねてきて、いつの間にか家族の一員のようになりました。私のおしゃべりを聞いてくれるもう一人のお兄様。彼がじっと見つめてくると、私はちょっと戸惑いました。だって私は、まだほんの少女なのですもの。千畝さんは東京に到着する前から、すでに満州国の領事代理として働いていました。

信じられないくらい勇敢で強情なの。ちょっと想像してみてくださいな。千畝さんは、ご自分のお父様に背いたのです! 英語を勉強したいからと、医大の入学試験にわざと落ちたのですって。名古屋尋常小学校を卒業してからは、早稲田大学に入学して、それから、もっと英語を早く学ぶために、キリスト教バプテスト連盟に入ったそうなの。でも、彼のお父様が怒って仕送りをお断りになったので、勉強しながら働かなくてはならなかったのよ。

ある時、小包を配達しながら、彼はこんな広告を見つけたのです。「外務省が留学生を募集しています」って。英語ではなく、ロシア語を話せる学生を急いで探しているとのことでした。それで彼はどうしたかって? 19歳の千畝青年は満洲国に行き、ハルピン学院に入学し、革命から逃れた白系ロシア人の一家と暮らし、そしてあっという間に語学を習得してしまうのでした。それから千畝さんはすぐにロシア正教会に入り、クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚し、それ以降パヴロフ・セルゲイヴィッチと呼ばれることもありました。(これは正教会でもらった洗礼名です。)そして、満州語、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語を完璧に話すようになったのです。

千畝さんは軍でも働いていました。ロシア語の先生として、です。彼はソビエト連邦の政 治や、経済状況の講座も行っていました。ソ連との北満洲鉄道の交渉も行ったのですよ。 その後どうしたと思います? 千畝さんは「日本人は、満洲で中国人に対してひどい扱い をしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかった。だから東京に帰 ってきたのです」と言いました。本当にそうなのかしら?

彼のこれまでの人生で、いくつかのことは私にとってはっきりしないの。たとえば、どう して前の奥様と別れたのかとか。でも、それはきっと私には関係のないことですものね。

ある日のこと。彼は私の目をみて、ゆっくりはっきりと話しかけました。ほかの男性から 、こういう風に心をこめて話しかけられることなんて、それまでなかったわ。もう何ヶ月 も知り合いだったけれど、この日の千畝さんは、これまでみたこともないくらい真剣だっ たの。そして、こう言ったのです。

「僕と、結婚してくれませんか」 「・・・どうして私と結婚したいだなんて思ったの?」 「あなたとならどこの国に一緒に行っても、

恥ずかしくないと思ったのです」

僕と、結婚してくれませんか